子どもの頃から、いろいろなことを習ってきました。
舞。
花。
茶。
占い。
バレエ。
水泳。
ピアノ。
そして、そのたびに言われてきたことがあります。
「できないなら、できないでいい。でも、やれるところまでやる覚悟はあるのか?」
今になって振り返ると、不思議なことに、どの習い事にもちゃんと「終わり」がありました。
舞には、最後の秘伝があった
舞は、所作から始まりました。
立ち方、動き方、足運び。
ひとつずつ覚えていって、最後の秘伝まで。
そこまで行けば、一つの終わりです。
最初から全部できたわけではありません。
できないことがあれば、できるところまで。
でも、途中で投げるのではなく、最後まで行く。
そういうものでした。
花にも、茶にも終わりがあった
お花は草月流を一通り。
アレンジメントはやっていません。
でも今でも、100円ショップのお花があればブーケくらいは作れます。
お茶は大変でした。
それでも、できるようになるところまでやりました。
これにも、ちゃんと区切りがありました。
身体ができないこともある
バレエも習いました。
でも、私はトゥシューズを履くことができません。
ならば、そこは仕方がない。
トゥシューズに至るまでの、自分にできるプログラムまで。
それが私にとっての終わりでした。
水泳は25メートル泳げるところまで。
ピアノは左手の動きなどが思うようにならないまま、それでもバイエルは終了しました。
できないことは、ある。
身体が言うことを聞かないことだってある。
だから、
「できないなら、できないでいい」
これは諦めるための言葉ではありません。
できないものを、できると言い張る必要はない。
その代わり、
自分にできるところまでは、本当にやったのか。
そこを問われる言葉でした。
終わりは決まっている
舞には終わりがありました。
花にも。
茶にも。
バレエにも、水泳にも、ピアノにも。
自分にできる範囲であっても、
「ここまでやった」
と言える場所がありました。
ところが、一つだけ様子のおかしいものがありました。
占いです。
昔、言われました。
「占いは一生使える」
……一生。
確かにそうでした。
頭が働いて、人の話を聞いて、占うことができるなら、年齢を重ねても続けられます。
そして私は、ずいぶん長く占いをしています。
それでも、
まだまだ本番です。
舞のように「最後の秘伝まで来ました」とはならない。
バイエルのように最後のページを閉じることもない。
25メートル先に壁があって、
「はい、到着」
ともならない。
一生使えるということは、
一生、終わらないということでもありました。
子どもの頃の私に教えてやりたいものです。
それだけは、軽い気持ちで聞き流すな、と。
本当に一生やることになるぞ、と。
そして、母だけは違った
いろいろなことを教わりました。
できないこともありました。
身体的に無理なこともありました。
そんなとき、
「できないなら、できないでいい」
という考え方も教わりました。
できないなら、自分のできるところまで。
最後まで。
ところが。
母上だけは違いました。
できない?
無理?
身体がついてこない?
母上の答えは、だいたいこれです。
「できる! やれ! 根性!!」
……。
舞には終わりがありました。
花にも、茶にも、バレエにも、水泳にも、ピアノにも。
占いだけは、今も続いています。
そして母上の「根性」も、
どうやらいまだに終わっていません。

